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住宅ライターの「ザ・パークハウス 南浦和フロント 」取材レポート

熊谷実津希

住宅ライター
熊谷実津希

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2017年10月30日

徳川の鷹場、宿場町から県都へ――浦和の歴史を辿ってみました

JR「南浦和」駅の西口を下りて、「ザ・パークハウス 南浦和フロント」のある南本町エリアやその周辺を歩いていると、駅に近いのに穏やかで落ち着いた街だなぁと感じます。

駅前には学習塾や予備校が多く、JR「浦和」駅とJR「南浦和」駅の間には「浦和第一女子高等学校」などの学校もあり、“文教の街”といわれる所以を実感しますが、その背景にはどのような歴史があるのでしょうか。

南浦和・浦和周辺の名所や史跡を辿りながら、探ってみたいと思います。

古くは縄文時代から人が住んでいた場所。朝廷との縁を持つ神社も

浦和の歴史は、古くは縄文時代まで遡ることができ、「馬場小室山遺跡」や「南鴻沼遺跡」などから、人々が生活を営んでいた証として土器や石器が多数発掘されています。

今でも地元の方に親しまれているスポットとしては「ザ・パークハウス 南浦和フロント」から徒歩19分(約1,470m)の場所にある「調(つき)神社」が有名どころではないでしょうか。


▲旧中山道に面する「調神社」。
地元の方には「調宮(つきのみや)神社」の呼び名でも親しまれています。(タクシーの運転手さんは“つきのみや”の方がしっくりくるね~と言っていました)

 

こちらの「調神社」は、今から約1800年前の開化天王の時代に創建されたということですが、文献として残されているエピソードとして興味深いのは、弥生時代、伊勢神宮への貢物を集めるための拠点とされていた(※1)ということ。

上の写真を見て「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらの神社の入口には鳥居がないんですね。
これは、当時朝廷への貢物を運搬する際の妨げとなることから、取り払われたとする説があるそうです(※1)
神社の名前となっている「調」は、古代の税制「租・庸・調(日本史の授業で習いましたね!・笑)」の「調(繊維製品など)」に由来するのだとか(※2)

 
▲旧本殿や工芸品の「神輿鳳凰」、古文書など、市の認定文化財も残されている「調神社」。
今の季節は七五三で訪れる人も多く、週末は家族連れで賑わっています。
家族の行事で訪れる“地元の神社”が古代からの由緒を持つ名所だなんて、素敵だな~と思います。

江戸時代には徳川の鷹場が置かれた場所。宿場町としても繁栄しました

また、浦和の歴史を語るうえで欠かせないのが、江戸時代の将軍、徳川家康・秀忠が鷹狩りに訪れた場所であるということ。
元々朝廷の遊びであった鷹狩り(鷹を使って野鳥などを捕らえる狩り)ですが、戦の練習に、また、領地の視察や健康維持にと、特に家康が好んで行ったといわれています。

ここ浦和には、そんな江戸の時代に「浦和御殿」と呼ばれ、鷹狩りの際の休憩所として使用されていた場所があり、今は「常盤公園」として整備されています(※3)

 
▲鷹狩りの廃止後も「御殿跡」「御林」の名で幕府に保護された「常盤公園(現地より約2,860m)」(※3)
現在、公園を囲っている赤レンガ塀は、明治時代に浦和地方裁判所・検察庁が置かれていた際の名残なのだとか(※4)

 

時を同じくして、江戸と日本各地を結ぶ五街道のひとつ、中山道が整備されます。
浦和には日本橋から3番目の宿駅「浦和宿」が置かれ、大名などが宿泊する本陣や問屋場(といやば。宿役人の詰所のこと)がありました(※5)

▲さいたま市の指定史跡「浦和宿本陣跡(現地より約2,690m)」。
この場所は現在「仲町公園」として、地域の憩いの場となっています。

 

徳川家康が関東で居城を築く場所を探していた時、浦和を第一候補に考えていたという記録も残されており(※3)、結局、物資の輸送面などを考慮し、海に近い江戸城が選ばれたそうですが、内陸部の中では当時から注目度の高い街だったことが伺えます。

  
▲江戸の頃より宿場町として栄え、商業の中心地でもあった浦和。
毎月2と7の付く日に開かれる「二・七市場」もあり、お酒や味噌、醤油、農産物などの取引が行われていたそう(※6)。活気ある市場が庶民の生活を支えていました。
旧中山道沿いに「浦和宿二・七市場跡(現地より約2,450m)」や「市場通り(現地より約2,360m)」といった史跡がありますよ。

明治時代に県庁所在地に。災害への強さと都心への近さから、住宅地として発展

明治4年(1871年)に埼玉県が成立し、浦和が県庁所在地になったのはご存知の方も多いでしょう。
実は私、埼玉県の出身なのですが、やはり「浦和」というと旧浦和市、県庁所在地がある場所、県の中心地というイメージがあります。

そんな浦和が商業地のみならず、現在住宅地として発展してきた背景には、大正12年(1923年)の関東大震災後に地震による被害が少なかったこと、電車通勤が一般的になり、都心部から約20km圏に位置する利便性などが評価されたことがあったようです(※5)

 

ここまで、先史時代から江戸時代、近代と浦和の歴史を見てきましたが、次回の記事ではもう少し南浦和に寄り、現在の地区計画や街並みについてレポートしてみたいと思います。

※掲載の写真はすべて2017年10月に撮影したものです。
※掲載の距離は現地からの地図上の概算です。徒歩分数は80m=1分として算出(端数切上げ)しています。
※1:調神社境内の掲示物「由緒」より
※2:公益社団法人 浦和法人会「なぜ?浦和与野の不思議」より
※3:さいたま商工会議所「浦和の歴史を探る」より
※4:常盤公園の掲示物「浦和文化の小経 常盤公園」より
※5:さいたま市「浦和区のあゆみ」より
※6:浦和宿二・七市場跡の掲示物より
熊谷実津希

住宅ライター
熊谷実津希

住宅ライター。賃貸、分譲、中古も新築も、さまざまな住宅・不動産分野の記事を担当してきました。住宅最新トレンドや自分の足で調べた現場のことなど、自身の取材で得た情報を第三者目線で徹底的にレポートします。

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