日時: 2012年01月26日 07:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
横浜には、開国当時の歴史的なエピソードが残る場所が数多くありますが
馬車道方面からマンションへ向かう途中にある【吉田橋】という橋もそのひとつ。
この「吉田橋」は、横浜開港にともなって1859(安政6)年に設置されたもので
その後1869(明治2)年、イギリス人技師・ブラントンにより日本初のトラス鉄橋として架け替えられ
“鉄(かね)の橋”としてその名を知られました。
その姿が錦絵に描かれるなど、文明開化のシンボルとして大変人気を集めたそうです。
横浜開港・文明開化のシンボル「吉田橋」

▲現在の「吉田橋」は、鉄筋コンクリート製になっていまが
高欄(手すり)の部分には、ブラントンによる“鉄の橋”の意匠がイメージされています。
当時は入海を渡るための橋でしたが、現在の橋の下は陸地となり高速道路が走っています。
吉田橋関門の跡地を示す碑は、開国百年祭を記念して昭和29年に建てられたもの。
(現地より約180メートル/徒歩3分)
そもそも吉田橋は、鎖国が解かれた横浜の開港時
主要な陸路である東海道から港へ向かう道「横浜路」が整備されたのに伴い、
入海があった当地に架けられた橋でした。
また、開国したとは言え外国人居留区との自由な行き来が制限されていた中
吉田橋には関門が設けられ
海側にあった外国人居留区(=関内)と、内陸の日本人居住区(=関外)とを行き来する場所という
重要な役割を果たすようになります。
関門は1871(明治4)年に廃止されましたが
「関内」「関外」という呼び方は、この関門の内外という意味で誕生したのです。

▲吉田橋の北端には「鉄の橋」を説明する碑が設置されています。
添えられている絵は、浮世絵師・歌川貞秀が描いた当時の吉田橋の様子。
(現地より約200メートル/徒歩3分)

▲拡大してみると、馬車や洋装の人物などが描かれていることがわかります。
まさに、文明開化の象徴ですね。
桁部分の構造はデザインとしても目をひきますが、このイメージが現在の吉田橋にも
引き継がれています。
また、マンションの建設地である吉田町は、ちょうどこの橋の袂にあったことから
元町とともに日本人居住区の町として造られました。
関内から吉田橋を越えて、陸路である「東海道」へ向かう道のりとしては
吉田町を通過する「横浜道」が整備されたそうですから
関内から来る外国の品物や人々は、吉田町を通って運ばれていったのでは・・・
そんな想像をしながら街並みを眺めてみると、また楽しいものです。

▲現地より約50メートル
■レポート内に掲載した写真は2012年1月17日に撮影したものです。
■参考:横浜市中区ホームページ
【01-2011.11】






































